Webツールが文章の「硬さ」を見極める方法

はじめに

 

硬い文章は読みにくい。

 

とっつきにくく、眠くなる文章だ。
条文や、役所の文章にそういうのが多い気がする。

 

ただし、硬い文章でも、分かりやすく知性を感じるものもある。

 

とっつきにくいだけなのだ。

 

人に例えると、一見絡みにくいが、話すと面白いやつみたいな。
多分、気難しそうな雰囲気とかが原因だろう。

 

文章はどうか。

 

我々ライターは、経験で判断していると思う。
正直、個人のさじ加減に過ぎないと感じる。

 

Webツールは、そうもいかない。
統一的なアルゴリズムが無ければ、まともに機能しないからだ。


ここに『文章の難易度測定方法に関する研究―「やさにちチェッカーの「硬さ」について」―』という論文がある。

 

筆者は岩田一成氏。

 

公用文の文章難易度診断ツール「やさにちチェッカー」に関わりを持つ研究者だ。

「硬さ」の正体を見ていきたい。

 

※あくまで公用文の「硬さ」ついて論じた内容なので、そこは留意してもらいたい。

 


①公用文が読みにくい本当の理由

 

公用文はなぜとっつきにくいのか。

 

理由の1つに、語彙の難しさがあると思う。
ピンとこない語彙のオンパレードだ。

 

それだけなのか。

 

岩田氏は、「お役所言葉をなくしても外来語を減らしても、文章構造自体が難解であればよみやすくはならない」と指摘。

 

続けて、「(公用文は)法律文をそのまま借用した文体で書かれており、さらに談話全体が整理されていない」と文書構造の傾向を説明した。

 

難解さの正体を探るため、白書・法律と知恵袋・ブログの文章を比較した結果、
前者は名詞や動詞などの実質語が多く詰まった、情報が圧縮された文章だったという。

 

なお、後者は一文が短く分かりやすいが、前後の文脈から文章を理解する必要が出てくるそうだ。

 

比較結果から、文章の「硬さ」は、実質語の詰め込み具合によると岩田氏は仮定しました。

 

②「硬さ」を測定する2つの方法

 

岩田氏によると、「硬さ」の判定には、語彙密度と文名詞密度の2つがあると言います。

 

2つの方法の概要は次の通り。

 

1,語彙密度

動詞・名詞などの実質語の数を計測するもの。

例文と測定事例は次の通り

 

※実質語の総数(下線部)を、文節数(「/」)で割って算出する

A語彙密度2.25(実質語9、節4)
クヌギになると、/落ちて積もります。/そこでカブトムシ産みます。/

B語彙密度9(実質語9、節1)
クヌギ落ち葉堆積することカブトムシ産卵場を提供します。/

 

2,文名詞密度

文中の名詞数を計算するもの。

例文と測定事例は次の通り。

 

※名詞は下線部

A文名詞密度3(名詞6、文2)
クヌギになると、が落ちて積もります。/そこでカブトムシを産みます。

B文名詞密度9(名詞9、文1)
クヌギ落ち葉堆積することカブトムシ産卵場提供します。

 

文名詞密度は、岩田氏が考案した手法で、「やさにちチェッカー」にも採用されている。


③文名詞密度が公用文の「硬さ」を判定するのに最適な理由

公用文の測定に文名詞密度を用いる理由は何か。

 

実質語の多くが名詞であることの他、もう1つ理由がある。

 

「名詞化」という現象が、文章の種類や、話し言葉と書き言葉の区別に関わりを持つからだ。

 

これは動詞や形容詞を名詞化することを指す。

 

本文中の例文は次の通りだ。

 

秋に枯葉がたくさん落ちて積もる。落ち葉の堆積はカブトムシに住処を提供する。

 

下線部「落ち葉の堆積」が名詞化である。

 

名詞化の多い文章はアカデミックな文章に多いという研究結果から、
文名詞密度を「硬さ」の測定方法として採用したという。

 

④「硬さ」の判定基準

実際に、語彙密度と文名詞密度で多くのジャンルの文章の硬さを比較した結果、
後者は白書・法律が、より「硬い」と判定されたそうだ。

 

岩田氏は、この点を高く評価し、法律文と似通った公用文の測定に向いているとした。

最後に、「やさにちチェッカー」の「硬さ」の判定基準を紹介する。

 

※密度は1文中の名詞数

1:文名詞密度が15超なら法律文レベル
2:文名詞密度が12超なら専門書と法律文の中間レベル
3:文名詞密度が9超なら専門書レベル
4:文名詞密度が6超なら児童文学と専門書の中間レベル
5:文名詞密度が6以内なら児童文学レベル

 

おわりに

要するに「硬い」文章とは、「窮屈」な文章なんだと思う。

柔らかい言葉を使っても、ギチギチ具合は変わらない。

 

類語辞典を使って優しい言葉を選ぶのも大事だが、文章を分けることを意識したい。

 

「合ってるけど読みにくい」という時に、名詞数や「名詞化」の有無を確認して、調整したらいいんじゃないか。

 

知らんけど。

どっちでもいい言葉をどう選ぶか?~『声に出したくなる⁉音象徴の世界』から考える~

 

はじめに

 

類義語はどう選ぶべきか。

「発表」と「布告」であれば、類義語辞典を見れば一発だ。

だが、困った言葉があった。

 

それは「ながら」と「つつ」。

 

辞書を見ても違いが書いてない。
正直、どっちでもいいと思う。

それでも、何らかの指標を持っておきたい。

 

そんなことを考えてネットをぶらついていた所、1つのブログに出会った。

 

それが『声に出したくなる!?音象徴の世界』(※)だ。
内容は、音が人に特定のイメージを引き起こす現象「音象徴」を紹介するもの。

 

「ながら」と「つつ」をどう対処すべきか。
「音象徴」を手掛かりに見ていこう。

 

(※)日本化学未来館、化学コミュニケーターブログ
https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20191224post-104.html

 

ながらとつつの違い

 

まずは、音から2単語を見てみる。

 

・ながら(nagara)
①母音:全部、母音が「ア」
②子音:最初から、ナ行、ア行、ラ行
③濁音:がという濁音が含まれる

 

・つつ(tutu)
①母音:全部、母音が「ウ」
②子音:最初から、タ行、タ行
③濁音:濁音が含まれない

 

こう見ると、かなり違う。

 

ここからは①~③の順番で、違いを確認していく。

 

①:母音

 

同ブログによると、母音(a,i,u,e,o)には、音の大きさに違いがある。
これは母音によって、より「大きいと感じやすい」、または「小さいと感じやすい」ということだ。

 

大きさ順で並べると、

 

あ、お>え>う>い
(論文によっては「あ」の方が「お」より大きいと言われていますが、他の母音に比べて「あ」と「お」では明確な大きさの違いはないとされています。)

 

という。

 

「ながら」と「つつ」を見ると

 

「ながら」は、”全部、母音が「ア」”
→もっとも大きい(と感じる)母音で構成

「つつ」は、”全部、母音が「ウ」”
→2番目に小さい(と感じる)母音で構成


②:子音

 

子音は阻害音と共鳴音の2種類に分かれるという。

 

阻害音は、濁音にできる音と濁音、半濁音。
→カ行、サ行、タ行、ハ行、ガ行、ザ行、ダ行、バ行、パ行

共鳴音は、濁音にできない音
→ナ行、マ行、ヤ行、ラ行、ワ行

 

2つの違いについて同ブログは、

 

音象徴では、阻害音は「角ばった」や「近寄りがたい」イメージになり、共鳴音は「丸っこい」や「親しみやすい」イメージにつながると考えられています。

 

と説明する。

 

では、「ながら」と「つつ」を見よう。

 

「ながら」は、”最初から、ナ行、ア行、ラ行”
→母音だけのア行は別として、他は「親しみやすい」共鳴音

「つつ」は、”最初から、タ行、タ行”
→すべて「近寄りがたい」阻害音


③:濁音

 

濁音については、

 

「大きい」「重い」「強い」といったイメージを与える

 

という。

 

「ながら」は”がという濁音が含まれる”
→「大きい」「重い」「強い」音が含まれる

「つつ」は”濁音が含まれない”
→特に、「大きい」「重い」「強い」音がない


まとめ

まずは、①から③の比較で分かった「ながら」「つつ」の違いをまとめる。

 

・ながら(nagara)
①もっとも大きい(と感じる)母音で構成
②母音だけのア行は別として、他は「親しみやすい」共鳴音
③「大きい」「重い」「強い」音が含まれる

 

・つつ(tutu)
①2番目に小さい(と感じる)母音で構成
②すべて「近寄りがたい」阻害音
③特に、「大きい」「重い」「強い」音がない

 

改めて、こう見るとかなり違う。

 

「ながら」は、くだけた文章とか、使用位置を強調したい場合とかに使えばいいんじゃないか。

一方、「つつ」は、固めの文章とか、大して重要じゃない箇所に使えばいいんじゃないか。

 

知らんけど。

そろそろ「」をうまく使いたい

はじめに

 

セリフを入れる「」

 

つなぎの部分をどうするかいっつも迷う。

 

あげく時間が無くなって、「」と語ったを繰り返す羽目になる。

カッコ悪いし歯がゆくて頭を抱えている。

 

今まで読んできた文章の書き方とか文法解説書にも、「」をうまく文章に入れる方法なんて書いてない。

 

自分でやるしかないと思った。

そこで、11月19日の朝日新聞から「」使ってる箇所を探してパターン分けしたい。

 

パターン分けの方法は、話し手を「」から見て、どこに置くかによって区分しようと思う。

 

早速見ていこう

 

 

パターン① 「」の前に話し手を明示する

一番シンプルなパターン。●は「」と語った、とかのパターン。

分かりやすくていいが、こればっかになって困る。

政治資金に詳しい神戸学院大の上脇博之教授は「政治家が(中略)見えてこなかったデータだ」と話している。
退避した男性医師は、午前9時ごろ1時間以内での対比を通告されたとし、「我々は非難を強制された」と説明した。

 

また、意見を語った後に「、」を置いて一息付けて、事実を地の文にするやり方もある。

林氏も取材に「法令に従い適正に処理し、その収支を報告している」とし、品物や贈り先については答えなかった。

見ていると、話し手が強く見える。誰が言ったかが重要。

 

こんなのもある。

見舞いに来た医師であるおいに「こんなに眠れるものなのか」と聞くと、「元気になるために眠れます」と答えた。

変わった書き方だが、会話の中に話し手を入れるパターン。すっとこういうのが書けたらかっこいいし、憧れる。

 

パターン② 話し手を直前の文に持ってくる

●は言った。「」のパターン

ベテラン議員は言う。「何と言われようが池田先生が支柱であったことは間違いない。選挙戦への影響はある」

こうすると、話し手と「」が両方重要であると分かる。パターン①は、話し手が強い印象があったが、『。』1つ入れるだけでこんなに印象が違う。

 

こういうのもある。

地元の方によれば、暑さが続いたためか、一帯は例年とは少し様子が違うそうだ。「いつもならこの木はもう盛りのはずですが、今年は遅いようで」。染まりきる前に落ちてしまう葉もある、と残念がっていた。

話し手の『地元の方』も「」内も重要ではない。

言いたいのは、『一帯は例年とは少し様子が違う』である。

『、』の使い方がうまいと思う。

 

以下の例を見ると感想を言う時にも使いやすいのではないか。

女性初の首相の座につき、その成果は本当にすごかった。「私に後戻りはない」と、信念がぶれない強い政治家であった。

 

パターン③ 「」の後に話し手を示す

話し手が「」の後に来るパターンこういうの。

贈り物はどう渡されるのか。「多くは国会議員への贈り物だ」と与党議員のベテラン秘書は話す。

「」が強くなる。そこまで話し手は重要じゃない。「」に説得力を持たせるための材料。

 

パターン④ 話し手を直後の文に持ってくる

パターン③よりももっと話し手がどうでも良くなる。

「娘は軍に捨てられました」。12日、イスラエル中部クファル・サバにある軍の墓地で営まれたロニ・エシェルさん(19)の葬儀で、母シャロンさんが涙ながらに訴えた。

内容が内容なのでいたたまれないが、別に母でも父でも叔父でも何でもいい。

この使い方は、記事の冒頭に多かった。引きの役割に使えるんだと思う

 

パターン⑤ 話し手が段落をまたぐ

次に示すのは高等技術。急いでるときとかにやっていいものじゃない。

 与党議員のベテラン秘書は話す。(中略)。
 自身が使える議員が入閣した際のお祝いとして、同僚議員から商品券やビール券をもらったこともあるといい、「昔からの習慣で、もらうからには返さないと、と続いてきた。例を失することによる失点を防ぐためだ」という。
 別の与党議員の秘書は...

ポイントは、最後に『別の与党議員の秘書は』があること。

疲れた人間が読んでいたとしても、次の段落の冒頭で前の発言が誰か分かるようになっている。

 

以下は、「」内を物凄く強調するために使っている。

 心理士からこう言われた。
 「『男はこうあるべきだ』にがんじがらめになっていますね。つらくないですか?」
 結婚を望んだ女性と別れたと(以下略)

若干くどくも感じるが、「」内に『』を入れて、さらに強調している。書き手が記事のイメージをしっかり描いていないと、こうはならない。

 

パターン⑥ 話し手を「」内に入れる

こんなの。

(記事冒頭)「取締役会は、オープンAIを主導し続けるための彼の能力に自信が持てなくなった」

あまり見ないし、使いどころも少なそう。ただし、「当店はラーメンが自慢です」など話し手が強調したいことを示すために使える。

 

また、パターン③(「」の後に話し手を示す)との合わせ技もある。

 会社の方向性をめぐる幹部らの意見対立があったようだ。
 「サムと私は、取締役会が今日やったことに驚き、悲しんでいる」。ブロックマン氏は17日夜、Xにそう投稿した。

ここまで来ると、翻訳以外に用途がないんじゃないかなあ。

 

パターン⑦ 見出しに話し手を明示する

インタビュー記事など、登場人物が1人の時に使えるもの。ここまで来ると、記事の体裁によって使えるかが変わってくる。さらに、見出しにするほど話し手が重要でなくちゃいけない。

 

(見出し)ホスピスで2500人めとった柏木哲夫さん
「先生、やっぱり死ぬのは怖い」回診中に患者から言われた。ホスピスでも「死」という言葉を患者から発することはあまりない。「ああ、そうでしょうね」としか答えなかった。

このほかの部分でも、「」内が見出しの時点で話し手が決まってるから、好きに「」を入れられる。見出しで話し手を固定すると、書き手は楽しいんじゃないかな。

 

おわりに

「」と話し手の位置から、「」を区分してみたら、なんと7パターンもあった。

正直びっくりしている。

 

これを日々のライティングにどう活かすか。

 

とりあえず、話し手と「」の内容のどっちを強調したいかを頭に入れておけばいいんじゃないかな。

あとは、同じパターンが続きすぎて他のを使いたいときとか

 

茶摘みの歌詞はすごすぎる

はじめに

 

唱歌『茶摘み』の歌詞ってすごくない?っていう話をしたい。
今回は1番のみに絞って解説する。

正直こういう文章書けるなら、小説家にもなれると思う。
ぜひお付き合いください。

 

夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠

 

 

・「夏も近づく八十八夜」

すごいポイント1

夏ってのがすごいと思う。
「梅雨も近づく」だったら歌うのをやめたくなる。
「春も深まる」だといまいち温度感とか季節感が分からなくなる。

ここで「夏も近づく」だから、少し暑いような、半そでか長袖か迷いそうな温度ってわかる。しかも天気良さそうなのもすごい

すごいポイント2

ここで「夏も近づく」の「も」を見てほしい

「夏は近づく」っでも「夏が近づく」でもないのがすごい。
この2つだと、「夏」が歌詞の中で強くなっちゃうんだよね。
季節感分かってくれれば、そこで「夏」は歌詞から退場してくれていいもんね

現代風にいうと「夏の近づく」なのかもしれないけど、やっぱり歌い上げるときは「も」の方がしっくりくるなあ。
理由は説明できない。

 

・「野にも山にも若葉が茂る」

すごいポイント1

「野にも山にも」
歌い手が外にいることを示す一節。
しかも「野」と「山」なので、町や村でも田園でもない。
こう、土と砂利でできた田舎道を歩いてるように感じないだろうか?

 

すごいポイント2

「若葉が茂る」
格助詞「が」の登場。
「が」は前後を強く結ぶ働きがある。
視点をズームインして、「若葉」と「茂る」に焦点を当てている。
若葉の色は薄緑が普通だろうから、茶葉とかお茶の色を連想させる。

また、茶葉は若葉のうちに摘むのが良いとされているから、次へのつなぎの役割を果たしている。

 

・「あれに見えるは茶摘みぢやないか」

すごいポイント

「あれに見えるは茶摘み」
ここで係助詞「は」が出現。これは文の主題を表す助詞だ。
「あれに見える」ものが「主題」、それは「茶摘み」と、ここまでとことんじらしている。


短い歌詞の中でここまで主題を我慢できるのはすごい。

 

んで、なんでこんなことができるのか。
これは、タイトルが「茶摘み」だからだと思う。
例えば、格好つけて「八十八夜」とか「摘まねばならぬ」にしたらこうはいかない。
歌い手も聞き手も、どこかもやもやしてしまう。

「茶摘み」だからこそ、情景描写に身を任せられるのだと思う。
作詞者不詳とのことだが、もったいないもいいところだ。

 

・「あかねだすきに菅(すげ)の笠」

すごいポイント1

「あかねだすき」
これまで歌詞に出てきた色は、若葉の薄緑だけである。
ここで「あかね」を出している。
急に場面がカラフルになる。
「紺の着物」とかではこうはいかない

 

すごいポイント2

「あかねだすきに菅(すげ)の笠」
この順番なのが偉い。

「菅(すげ)の笠にあかねだすき」
これでは歯切れが悪い。

「さ」と違い、「き」では締まらない。
恐らく、「さ」と大口を開けて発音できるのが良いのだと思う。

それに、「す」から始まるのも気持ち悪い。
やはり「あ」と大口を開けて発音してから「さ」で気持ちよく歌いきれるのだと思う。

 

・おわりに

以上、「茶摘み」の歌詞ってすごくね?という話でした。
リズム感は無視して、情景描写をマネしておしまいにしたいと思う。

 

秋の夜長ももうすぐ終わる
月の明かりが小川を映す
木々の葉っぱは、ひらひらおちる
光る水面に茜さす

 

・・・ムズイわ。
最後の「あかねだすきに菅(すげ)の笠」。すげえよ。
再現できねえわ

ライターのための書評No.?『漢字・仮名まじり文の読みやすさーー表記面からみた読みやすさの条件ーー』

はじめに

文字を開く、漢字は適当な割合で仮名に「ひらく」と分かりやすい。

どこかで聞いたことがあると思う。

 

また、文中の漢字率は20~40%くらいがもっとも読みやすい。

こちらもどこかで耳にしたかもしれない。

漢字率チェッカーを活用すれば漢字率の調整は簡単にできる。


しかし、単純に漢字の使用率を調整したところで、小難しい言葉を使えば読みにくくなるし、「而も」や「ゆでたまご」など漢字または仮名にすると気持ち悪くなる表現もある。

 

もし、漢字の使用率が読みやすさに直接関係ないとすれば、何が文章の読みやすさに影響するのか。

 

この問いの1回答になるのが、小山内陽子氏の『漢字・仮名まじり文の読みやすさーー表記面から見た読みやすさの条件ーー』(以下、本論文)だ。

 

その内、漢字の割合ではなく使う言葉(用語)を変えて実験している前半部分を紹介したい。

 

最後に本論文の内容が文章を書く上でどう活かせるかを考える。

 

なお、論文の引用方法などルールから外れたことをしているが、個人の備忘録と思って見過ごしてほしい。

 

(※)引用元
   https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/4767/files/8.pdf

 

第1節、先行研究とその問題点

従来の研究では、文の長さと漢字の割合が読みやすさが読みやすさの指標とされていたという。

 

堀川直義氏、平井昌夫氏、安本美典氏の言説から、

 

「漢字の割合は多すぎても少なすぎても読みにくく、適当な割合で書かれているのが読みやすい文章だ」

 

と研究成果をまとめている。具体的には、文中の30%前後が「適当な割合」とされている。

 

ここで、小山内氏は「漢字の適当な割合という形の基準設定はどこまで有効か」と、先行研究の問題点をあげた。

 

そもそも、漢字には「漢語に漢字」「和語の中の漢字」「混ぜ書きで漢字が使われる」など、様々な使い方がありそれ次第で読みやすさが大きく変わるのではないか、と指摘する。

 

この点を検証するため次の実験を行った。

 

第2節、実験の概要

実験の内容は次の通り。

 

大学生と高校生の計61名を対象に、『近代日本文学思潮史』の一節を次の1~3の条件で順番に黙読させる。

 

①、漢語を平仮名書きにし、読みやすいとされる漢字率に直した文章(漢字率32.7%)
②、漢語の多い文章(原文、漢字率42.5%)
③、漢語を和語に書き改めた文章(漢字率39.8%)

 

その後、対象者に一番読みやすい感じた文章と、文章の主旨に最もふさわしいと感じた文章を①~③の間で選択させる。

 

また、同時に文章の主旨を書かせるように指示し、理解しながら文章を読ませるようにして、各自の読了時間も記録させた。

 

結果は以下のとおり。

 

表1 一番読みやすいと感じた文章、文章の主旨にふさわしいと感じた文章

  漢語ひらがな書き文(①) 漢語文(②) 和語文(③)
読みやすい 0人 17人(27.8%) 44人(72.2%)
主旨にふさわしい 1人(1.5%) 39人(63.9%) 21人(34.5%)


表2 平均読了時間、最大読了時間、最小読了時間

  漢語ひらがな書き文(①) 漢語文(②) 和語文(③)
読了時間 平均 2分28.8秒 1分48.9秒 1分36秒
最大 5分10秒 3分30秒 3分10秒
最小 1分10秒 55秒 45秒

 

第3節、考察と結論

小山内氏が取り上げた実験の結果を箇条書きにすると次の通り。
特に重要な内容は太字にする。

 

1、①を分かりやすいとした対象者が一人もいなかった一方で、②を分かりやすいとした割合が約30%であったこと
2、①と②の読了時間には40秒ほどの差が生じていること
3、②と③の読了時間の差は13秒ほどなので、①がいかに読みにくいかがわかる
4、1~3より、漢語は漢字を用いた方が読みやすい
5、②と③を比較した場合、漢字率は2.7%に過ぎないが、読了時間は13秒短く③を読みやすいと感じ対象者は72.2%に上る
6、5から、漢字率ではなく、漢語や和語と言った使われる用語の分かりやすさが、文章の理解のしやすさに直結する
7、主旨にふさわしいか、つまり内容を深く理解するためにどのような表記法が妥当か、については②が最も多かった
8、7は原文に漢字が多いことと、『近代日本文学思潮史』という主題を論じるには漢語がふさわしいと思う対象者が多かったからだ

 

以上から、小山内氏は「適当な漢字率というのは、文章を理解する意味的符号化の際には、直接的に関与する要因ではないことが推定できた」と結論付けた。

また、漢語(②?)と和語(③?)を比べると和語の方が読みやすいという結果が出たとも言及している。

 

ここから小山内氏は「読みやすい漢字仮名まじり文にするには、平易な用語を用いることがまず必要で、次の段階として漢字のまじり具合を検討すべき」と提言した。

 

おわりに

最後に私がこの内容から、何を学んだかをまとめたい。

 

まず、一番大事なのは平易な言葉の使用を考えてから、漢字の使用率に目を向けるということだ。

漢字の使用率については文章が完成してからの見直しに確認するくらいが良いのではないか。

 

次に、平易な言葉を選ぶうえで漢語→和語への置き換えは1指標となるのでは、と感じた。

「わかりにくい」と感じた単語は、類語辞典を見るなりして和語に置き換えられないか考えるくらいしてもいいと思う。

 

時間がないときは、漢語→和語ができなければ妥協しちゃうとかもいけるんじゃないかなあ。

ちなみにこの文章の漢字使用率は35.6%らしい。知らんけど。

ライターのための書評No.4 『私家版 日本語文法』

はじめに

 

 

 文章が仕事の人は、「日本語の勉強をしなおしたい」と思うことが一度はあると思う。

 

 しかし、筆者は、学生時代に使用した資料集を見返すと、げんなりしてしまう。

 

 活用形や品詞についての説明が、無機質でつまらない。

 

 結果、文章を学習したいが、読む気が失せる。

 

 言い換えれば、アイロンを使いたいからと言って、説明書を1から読もうとは思えないようなものだ。

 

 書評を始める前に言いたい。

 

 本書は面白い。

 

 面白く、日本語が学べる。

 

 とにかく、読んでほしい。

 

 

『私家版 日本語文法』の概要

 

 本書は、教科書的な日本語文法の説明書ではない。

 

 著者、井上ひさし氏による日本語の研究書に近い。

 

 読めば日本語に対する見識の深さと、真摯な姿勢も感じられる。

 

 研究書というと敬遠してしまうかもしれないが、読者向けに面白く書かれている。

 

 居酒屋で面白いオタクの語りを聞いているような感じだ。

 

 それでいて、ダラダラした印象もなく理路整然としている。

 

 本書は、日本語に関する記事を集めたような構成をとる。

 

 各記事の名前には、「形容詞の味」や「時制と体制」から「コンピュータがねをあげた」というものまで、色々ある。

 

 次に、著者と出版年について見ていきたい。

 

『私家版 日本語文法』の著者と出版年の紹介

 

 著者は井上ひさし(1934~2010)。小説家・劇作家・放送作家である。

 

 文化功労者の同氏。

 

 執筆当時「7種類の新聞朝刊が筆者宅の郵便受けに投げ込まれる」、とのこと。

 

 出版年は1984年だが、最新の技術を追う内容ではないので問題ないと思う。

 

 しかし、表現や例文等が古く感じることはあるので、留意していただきたい。

 

 では、本書の内容を一部見ていきたい。

 

『私家版 日本語文法』の一部内容

 

 以下、本書の内容の中で、特に興味深かった内容を2点あげていきたい。

 

①「ナカマとヨソモノ」より

 

『坊つちゃん』(この小説の場合は、最初のうちはなるべく主語に人称代名詞は使うまい、という配慮)、読者との間をこまかく調整しながら、つまり〔相手に合わせての自分定め〕をしながら、すこしずつ読者を物語のナカマに誘い込み、共同の縄張りができたところではじめて<おれは>と人称代名詞を主語に立てるのである
(中略)
三遊亭円生もまたお客との間合いの微調整がうまかった。
活字で見ても明瞭だが、言い切りが多くなり、語りの速度がぐんぐん上がる

 

 書き手(話し手)が読者との間合いの詰め方を書いた一節。

 

 『坊つちゃん』は「おれ」という人称代名詞をストーリーが進むにつれ、使用することが述べられている。

 

 また、三遊亭円生は語りを「長い文章→短い文章」にし、語りの速度をあげることで、聞き手を惹き込むという。

 

 筆者は読者との間合いを意識して、記事を書いたことはない。

 

 ただ、目の付け所に驚いた。

 

②「形容詞の味」より

 

形容詞にもこの<有情>と<無情>があるようだ
ク活用の形容詞が客観的内容を表しているのに、シク活用のそれは情意の濃い、すなわち感情を表しているのである
ク活用・・・属性形容詞(無情)
シク活用・・・感情形容詞(有情)
(中略)
味についていれば、奇妙なことに無情の形容詞が多い。(中略)ちかごろ、味を、形容詞によってではなく、形容動詞やその語幹によってあらわそうとするコピーライターが多いが、これは味の形容詞のほとんどが無表情であることに関係があるだろうと思われる。

 

 「ク活用」と、「シク活用」は学校で習った覚えもあるが、いまいち記憶にない。

 

 本書は、見ての通り、それぞれの活用形にどのような特徴(無情・有情)があるのか書かれている。

 

 また、食品のキャッチコピーで「まろやか」や「あたたか」など、形容動詞の使用が見られるのは味に関する形容詞が「無情」であると分かれば腹落ちする。

 

 「形容詞の味」を見れば、「ク活用」・「シク活用」・「形容動詞」について学習できる。

 

おわりに

 

 井上ひさし氏と筆者の文章力・構成力の差は言うまでもない。

 

 本書の良さがわずかでも伝われば幸いである。

 

 最後に同氏の名言を1つ紹介したい。

 

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」

 

 本書にもその精神は貫徹されている。

 

安臥の奥座敷 大原

 1月の2時半、京都の大原に到着した。

 

 大原を代表する観光地、三千院は5時に閉まる。

 

 他の観光地や有名なレストランも同様だった。

 

 時間の無さに焦り、効率的に大原を回ることとした。

 

 幸い、昼食は京都駅で済ましてきたので、損をせず観光できるはずだ。

 

 結婚2年目の私は、妻と良い思い出を作ることに躍起になっていた。

 

 とりあえず、三千院まで向かうことに決めた私と妻。

 

 品のある古民家風のお土産屋と、石垣と落ち葉が同居する川を脇目に三千院へ急ぐ。

 

参道沿いの川。奥に店が見える

 

 息を吸うたび、清涼感が全身を満たす。

 

 石垣の上に乗った白い漆喰塀に挟まれた三千院の表門は、城郭と見間違うばかりの壮麗さであった。

 

 拝観料を払った後、順路に沿って建物を巡っていると、したり顔の妻がこういった。

 

 「詫び寂びって感じだね」

 

 あってはいるし、適切な表現を探して閉口していた私に比べれば、遥かに良い。

 

 それでも、なんか「うん、そうだね」とは返せず、小さく頷いた。

 

 まさしく「静謐」(他サイト様にあった表現)というべきであろうか。

 

 途中、江戸時代から存在する庭園を眺めつつ、抹茶を楽しめるサービスもあったが、時間の制約から断念した。

 

 建物から出て順路を進むと、原風景の山野を苔でコーティングしたかのような別の庭園があった。

 

三千院を代表する庭園の1つ。有清園

 

 広い庭園の中に点在する立て看板さえも、自然なものに思える。

 

 庭内の池は、スマホを落としても壊れなそうだった。

 

 この景色をどのように表現するか閉口していたところ、ニンマリ顔の妻が言う。

 

 「詫び寂びが出ちゃってる」

 

 詫び寂びが出ちゃったのか。

 

 そう。まさしく閑寂(類語辞典より)である。

 

 観光サイトを見たところ、お土産屋が閉まるまで余り時間はなかった。

 

 思い出を形にしたい思いから、三千院を後にした。

 

 土産物を漁るサラリーマンの心持ちになった私は、妻と早足でお土産屋を物色した。

 

三千院の参道沿いのお土産屋

 

 そんな中、人懐っこい笑顔の老人が「うちの店を見ていかないか?」と声をかけてきた。

 

 私は、悪質なキャッチにあって以来、このような勧誘に苦手意識を持っていた。

 

 それでも無視するのは気が引けるので、小心者の私は答えた。

 

 「時間がないのですみません」

 

 すると、

 

「大原は時間が止まっているんです」

 

「もっとゆっくりしていってください」

 

 とはっきりした声で言われた。

 

 私は心がこもっていない返答をしたように記憶している。

 

 思い返せば、私は大原に都会を持ち込んでいた。

 

 ここには、不健康そうに呼吸をするビルもなければ、バスの時刻表以外に時間を示す掲示板もない。

 

 耳を澄ませば、

 

「焼き芋~、焼き芋~」

 

 と子供の楽しそうな声が聞こえてくる。

 

 おばあさんが「はい、はい。」と答えたのは気のせいだろうか?

 

 お土産の物色をやめ、もう少し観光することに決めた私と妻は、三千院前の店に入り、みたらし団子を食べることとした。

 

 時間をかけて焼かれたみたらし団子は、とろけそうな頬より柔らかく、甘じょっぱい。

 

みたらし団子

 

 妻が笑顔で、「美味しい」と言った。

 

 食い物に「詫び寂び」を感じなくて良かったと思う。

 

 その後、三千院から徒歩で20分かかる「音無の滝」に向かうこととした。

 

 「音無の滝」の近くには、神社も喫茶店もない。

 

 進むにつれ、人家がまばらとなり、森林が見えてきた。

 

スニーカーを履いていれば、無理なく歩ける

 

 落ち葉を踏みしめつつ、滝を目指して進む。

 

 山の澄んだ空気とヒノキの香りは酸素カプセルにも勝る。

 

 滝に近づくと、小川が私と妻を出迎える。

 

 

 その川は、色を失った落ち葉と泥が沈殿していた。

 

 プカプカ浮かぶ枯れ枝も不格好だ。

 

 美しさを覚えた私は、川の水をくみ取りたい衝動を抑えた。

 

 とうとう「音無の滝」に到着する。

 

 滝行もできないし、「ザアーッ」と大げさな音もしない。

 

 黒い岩肌に水が流れ落ちる。

 

 写真や絵が不得手なことに、これほどの悔しさを覚えたことはない。

 

 

 今は冬、そろそろ帰り始めないと、道が暗くなってくる。

 

 私と妻はバス停に向かった。

 

 途中、見たいものを見て、寄りたいところに寄った。

 

 それで後悔はない。

 

 バスに乗った私と妻は、明日の予定を話し合っていた。

 

 次は、朝から夕方まで大原を回りたいと思う。

 

 時間の止まった大原を知るのには、時間が必要だ。